私たちの悩みの多くは人間関係の悩みだとよく言われます。
「恵子の郵便ポスト」にも、人との関係で苦しんでいるかたからのお便りがよく寄せられていますし、自分自身のことを振り返っても、本当にそうだなと思います。
自分の容姿や性格や能力についての悩みであっても、突き詰めれば、人からどう見られるかや、人とのコミュニケーション、人からの評価といった、やっぱり人間関係というところに行き着くような気がします。
そして、一人きりで誰とも関わらずに生きていくのでない限り、常に人間関係は発生するのですよね。
友人、恋人、ご近所、職場、学校、親戚、家族・・・そして教会。
特に、親しくなればなるほど、関係がこじれた時の痛手も大きいような気がします。
イエス様も、人間関係に悩まれたのでしょうか?
・・・と問うてみて、いや、むしろイエス様こそ、誰よりも、そして本当に、人間との関係で悩み苦しんでおられるのでは?と思いました。
両親や兄弟たち、弟子たち、イエス様の奇跡を期待して集まってくる病人や群衆たち、イエス様に敵対する人々・・・
イエス様は本当に色々な多くの人たちと関わりながら、それもいい加減にではなく一人ひとりと正面から向き合って対話しながら、それゆえに誤解されたり恨まれたりもしながら、でもまったく人に流されることなく、いつもご自分を貫いていたような気がします。最後までずっと。
弟子に裏切られ、捨てられて、十字架にかけられる、その道をイエス様は自ら進み、自ら人々に殺され、その人々のためにご自分の命をささげた。
そこまで人のために尽くしながら、誰にも支配されない、究極の自由を生きたイエス様。
それはやっぱりイエス様が、他の誰でもなく、ただ父なる神様との親密な交わりを持っておられたからなのでしょうね。
でもそのイエス様が、十字架の上でこう叫ばれたのですよね。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
こんなに悲惨な叫びはないと思います。
究極の自由を生きたイエス様がなぜ?と思います。
イエス様はこの悲惨な叫びをあげる道をも、自らの意志で進まれたのでしょうか・・・。
私たちも、理由のわからない苦しみに襲われる時があります。
でもそれは、自ら進んでそういう苦しみの道に入っていくわけではなくて、突然わけもわからず突き落とされたような苦しみです。
しばらく前に、そのような心の痛みのコメントをいただきました。
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