心で決める

「皆さまの声募集企画・神様はお金が必要?」にいろいろな方々からいろいろな「声」をお寄せいただいてうれしいです。
だれよりもよな子自身が興味津々(?)で読ませていただいております。
まだまだ12日まで募集しているのでぜひぜひお寄せくださいね。お待ちしてまーす!

メールでも何通かいただいているのでご紹介していきたいなと思ってます。
今日は女性のかたからの「声」をご紹介します。
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神様はお金が必要なのか…。

洗礼を受ける前、「月定献金」ができない(というかあまりしたくない)ことが引っかかっていました。
でも最終的には「神様に従うことについて、献金できないからとためらうのは何か違う」という結論に至りました。
今は、神様がお金を必要としているのではなくて、神様へのお礼だと思っています。
感謝を見える形で表すためにささげています。
神様にささげるのだから、少し思い切っても、喜んでささげるなら困ったこと(必要なお金が足りなくなるなど)にはならないとも思っています。

でもキリスト教関係の活動や団体にかかわるとあちこちから献金の依頼が来て、正直どうしたらいいかわからなくなります。団体運営にお金が必要なのはわかるけど…
神様のためだからとすべてに献金していたら、生活が持たないだろうな…

結局は渋りながら献金するなら、しないほうがましだと私は考えています。

***

たしかに・・・
私も洗礼を受けて初めて「月定献金」と書かれた封筒を渡されたときは少なからず抵抗を覚えたことを思い出しました。洗礼を受ける前から礼拝の中で献金をしているのに、洗礼受けるとそれにプラスして毎月献金しなきゃいけないのか???って。

でもその月定献金の封筒に、こういう聖書の言葉が印刷されていたんです。

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」

「いやいやながらでなく、強いられてでもなく」って、まさに自分の心を言い当てられてるみたいでドキッとしましたね(^o^;

あれから何年も経って、今はもうすっかり献金するのが当たり前というか習慣みたいになっていて、「なんで献金をするのか?」なんて考えることもなく過ごしていました。

でも聖書には「心で決めたとおりにしなさい」って書かれてたんですよね!

ちゃんとひとりひとりが心で決めることを神様は求めておられるのでしょうか。

私は心で決めて献金してただろうか?

とても大切なことだからこそ、この機会に改めて問い、考えてみたいです。
そして皆さまはどんなふうに思っているか、皆さまの「声」をお聞かせいただけたらうれしいです。
ブログのコメント欄、もしくはメールでvoice@febcjp.com(件名は「神様はお金が必要?」で)までお寄せください。
1月12日(月)まで募集しています。

12件のコメント

  1. 匿名

    よな子さん こんばんは。FEBCのフェースブック (神様は お金が必要?)ずいぶん 何度も そして ねちっこく 取り上げて いらっしゃいますねぇ~!? 依然 どなたかが 仰っていましたが (お金で人の心が買える)…!? まぁ~ でもねぇ~ 本当に お金に困っていらっしゃる方が ある人に助けられたら その人に心を売っても いい と思ってられても…!? それも 有りかなぁ~ って 思います。情けないですけれどもねぇ~!? まぁ~ お金の魔力…!?なんでしょうかねぇ~!? まぁ~ お金は いくら 有ったって 邪魔には なりませんものねぇ~!? 仏教徒でも人間は 生きていても 亡くなっても お金が 結構 必要なんですよねぇ~!? まぁ~ それにしても お金の話 嫌らしいですねぇ~!? 誰もが お金は必要ですものねぇ~!? 献金… 寄付金… お布施… 等々 金額が多くて まぁ~ 普通の顔色 金額が少なかったら ブスッ (>__<) タクさん より

    • 須貝 元

      たった今ワールドビジョンジャパンのチャイルドスポンサーシップに申し込みました。これはご存知の方もいると思いますが、月々4,500円で一人の子供を支援して現地のスタッフが子供の教育や医療、家族の経済や就労支援、地域の振興を支えていく制度です。以前もミャンマーの子供の支援をしていましたが、経済的な理由でストップしていましたが、今回少し余裕ができたので再開しました。TVライフラインでも数ヶ月に一度紹介していますからご興味のある方はホームページで調べて下さい。少しでも途上国のお役に立てれば「この小さい者にしたのはすなわち私にしたのである」というみ言葉に従う事になるのではないかと思います。

  2. 匿名

    こんにちは。先ほど、居住地で一番大きい教会にお祈りに行きました。礼拝堂の入り口には献金箱が設置されていて、ささやかですが献金をしました。このような形なら献金をしやすく感じました。収入の十分の一を献金するのは、現実には難しい問題。かといって、「信仰のただ乗り」はしたくない。心で決めるというのは、それらを踏まえて考える事と感じました。

  3. yosi

    「宣教のための献金はその働きに自分も参加するという意味もあります。」
    と言うことを聞いたことがあります。

    自分が行けない海外で宣教している宣教師のために献金することによってその働きに自分も参加することになると聞きました。

    自分が直接できない伝道の働きのために献金することもこれと同じことだと思います。

  4. 匿名

    よな子さん、こんにちは
    コリント Ⅱ 9:7
    各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのです。
    私も什一献金について気になっていたので、質問くださった方とよな子さんに感謝です。
    色々解釈があるんですね。
    ●十分の一という概念は律法の下のイスラエル人に向けられている。
    ●前記のコリントのみことばのイエスさまのみ言葉に依ると、「心で決める」という事になる。
    ●旧約聖書に書かれているのだから、守らないといけない。
    …で、私の意見は、祈って決めようと思いました。今まで、受洗した時に決めた金額をそのままにしていたのですが、これからの事を祈っていこうと思います。
    追伸 お掃除継続中です。家の中に、牧師様や吉崎様のみことばが鳴り響くようになってから、どんどん整理整頓されています。今までは表面を掃除するだけで、実は押入れに物が詰まっていたんです。きっと、気持ちが整理整頓されているんですね。神様に、FEBC様に、よな子さんのブログに感謝。 翼

    • 須貝 元

      旧約聖書の律法だから新約の時代は関係ないというのは違うと思います。
      モーセの十戒は今も生きていると思います。心の思いのままにというのは確かに新約に書かれていますが、あくまでも旧約のおきてをもととしているものだと思います。これは十一献金する事によって恵まれた経験があると実感する事だと思います。思い切ってすることが神さまの祝福につながるのではないでしょうか。

  5. くらら

    先程の続きですが、以前はたしか「教会の財政を助けること」が、「教会の維持費を負担すること」だったと思います。
    今、ふっと思い出しました。

  6. くらら

    いわゆる「什一献金」のことを書いておられる方の文章を読んで思い出しましたが、カトリック教会には「什一献金」の制度はありません。

    「教会の掟」の第五番に、「おのおのの分に応じて教会の財政を助けること」(「カトリック教会のカテキズム要約」より抜粋)と書いてあります。以上です。

    「おのおのの分に応じて」というのは、金額は献金する人間の判断に任せるということなのでしょう(アバウトといえば、ものすごくアバウトなんですけどねぇ・・・(+_+)

  7. 匿名

    くらら 様 こんにちは 貴女様の ご意見 私は 同感です。私の 知人で カトリックの信者の方が こぼして いました!? 新しく 会堂を つくる とき 一人辺り 100万円 の お金がねぇ~!? ちょっと まわり くどく ですがぁ~ 要求 されたらしくて~ (>___<) でも…… くらら さん の コメント 私も 全く 同感です。 タクさん より

  8. くらら

    「全知全能の神さまになぜお金が必要なのか」というあるリスナーさんからの質問に対し、
    「この質問をされた方の年齢は何歳くらいなんだろう?」と、失礼ながら思いました。

    子供の質問だったら分かりますが、どう考えても大人がする質問ではありませんよね(もし大人の方だったらゴメンナサイ)。
    聖職者(とその家族)は霞を食べて生きている訳ではありませんし、教会運営に関して費用がかかるのは当然です(これはキリスト教に限らず、他の宗教団体にも当てはまることですが)。
    他の方がコメントされていたように、お金が必要なのは神さまではなく、私たち人間です。
    本当はとても大切な事なのですが、お金に関する話はあまりしたくないものですね。
    「宗教とお金」ってなんか良いイメージが無いし・・・。

    私はカトリック信者ですが、カトリック教会にも当然、献金のシステムはあります(献金用の封筒にはっきり「教会維持費」と書いてありますし、ミサ中の献金もあります)。
    ただ、カトリックに比べてプロテスタントのほうが献金に関して厳しいとは思っています。
    その理由を考えてみると、プロテスタントの牧師さんは(独身の方もおられるかもしれませんが)大抵みなさん結婚されており、お子さんもおられますので、家族を食べさせていかないといけないから(要するにお金がかかる)。
    それに比べてカトリックの神父さんは、妻帯出来ない(一生独身)ので、自分ひとりが食べていければいいから、牧師さんほどお金がかからない・・・といったところでしょうか。

    いつだったかプロテスタントの教会の礼拝へ参加したとき、週報に献金された方の名前と金額が掲載されていたのを見て、正直びっくりしました(◎o◎)
    金額はともかく名前を掲載するというのは、何か訳があってのことなのでしょうか?私だったら匿名にしてほしいです。
    詳しいことは分かりませんが、献金に対する考え方は、プロテスタント教会でも教派によって様々なのではないかと思います。

    リスナーさんの疑問に対して私がお答え出来るのは、教会でやたら献金を要求されておられるみたいなので(何という教派に所属されているのかは知りませんが)、はっきり言ってむやみに献金を要求するような団体・組織(たとえキリスト教の看板を出している所であっても)とは関わらないほうがいいと思います。
    例えば、信者の所得に関係なく一定の金額を要求するなんていうのはもってのほかだし、経済的な事情は人それぞれなので、献金はあくまで出来る範囲内ですれば良いと私は思っています。

    • 須貝 元

      皆さんの意見を伺っていると経費がかかるからそのために献金をするのだと言うのが多かったように思いますが、本来献金というのは神さまから戴いたお金の一部をお返しするというのが本来の意味で、経費があまりかからないから献金は少なくていいというのは少し違うと思います。10分の一は神さまの物です。

  9. のあ秋田犬

     yonakoさん、御疲れ様ですm(__)m
     自分も実質的に初めて教会での礼拝にお伺いさせていただきました際に、牧師さまから「献金袋は空のままでもいいですよ」と言われた事を思い起こさせていただきました。
     それなのに、いつしか、週報の献金感謝の覧に自分の名前が載る事を内心、誇っている自分に気付かせていただきました。
    初心に戻らせていただくきっかけをいただき、ありがとうございますm(__)m

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