「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ福音書11章28節)
そっかぁ〜、このみことばは、
イエス様の、父なる神様にゆだねる祈りのなかで語られた言葉だったんだぁ〜
何度も聴いて知ってるつもりのみことばだったけど
今回のお散歩トーク聴いて初めて気づきました!
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嘆いたり怒ったりした後、
こんどは突然、神様をほめたたえたりするイエス様・・
先週の前半戦では
「私、このイエス様ちょっと苦手かも・・・」
って思っちゃったんですけど
今回の後半戦を聴いてたら
むしろイエス様の人間臭さ(?)を感じて
「疲れた者、重荷を負う者は・・・」の言葉が
今まで以上に真実味をもって心に響いてきました。
私も、心の中では日々自分の感情に振り回されてます。
そういう自分にダメ出ししなくていい
そこで「父よ」と呼んだらいい
そう言っていただけた気がします(^^)
それと、後半戦を聴きながら、
先週の前半戦でのカノンさんからのコメントがすごく思い出されたんです。
「浮いたり沈んだりする感情と、「父よ、これは御心に適うことでした」と委ねる事・・・いつか心の中でひとつにされていくんじゃないか」
あぁ、イエス様のこの祈りのなかでひとつにされていて、
そこに私たちも「来なさい」って招いてくださっているんだぁ〜
そんなふうに感じました(^^)
みなさんが感じたことなどもコメントやメールいただけたらうれしいです。
放送はこちらからどうぞ!
遅くなりましたが、放送聴かせて頂きました!本当に、休ませてもらいたいですねぇ。
実は、先週、不安にさせられる出来事があり、今でしょ!と「父よ、これは御心に適うことでした」と祈ってみました。
でも、繰り返し祈っても、悲しさや痛みが消えないんです。
そこで、祈っていらっしゃるイエス様にただ心を寄り添わせていたら、不思議と心が軽くなって平安に包まれました。イエス様が、暗闇でオロオロしている私の手をぎゅっと握って導いてくださるような…
じょ~じが言っていたように、イエス様が、荷を下ろすことのできるお方のところに私を連れていってくださるんだなぁ、と感じました。
カノンさんのホットなコメント、あぁイエス様って本当に本当に一緒にいてくださるんだよなぁ〜って、なんかすごくイエス様のぬくもりを感じました。
「イエス様に、ただ心を寄り添わせる・・。」
最後の晩餐のヨハネを思わされました。
「幼子のように、神に信頼する。」
主を主とする信仰は、本当は単純そのものなはずなのですよね・・。
つい肩に力が入り、眉間にしわがより、考えすぎてしまう
信仰の浅はかさに気づかされます。感謝。
じょ~じ先生と長倉さんのフリートーク。解放感を頂いています。
今まで頭でばかり読んでいた聖書が、新鮮な風と共に、心に語りかけてきます。
イエス様の意外に(?)感情的にも見える言動。
いわゆる「仏様」と違って、新鮮です。ちょっと恐くもあるけれど。(^^;)
考えてみれば、「人と本当に出会う」ということは、そういうことかもしれません。
自分の理想を勝手に押し付けるのでなく、その人のありのままを見聞きして、
自分も本音で語り、時にはぶつかり、仲直りの努力をする・・。
そういう過程を通してしか、結べないのが「絆」なのかもしれませんね。
実際は、家族でさえままならないわけで、それ以外の人には遠慮が働くわけですが、
「疲れたまま、重荷を負ったまま、だれでも来なさい。」と言ってくださる
稀有な方には、隠さないで良いのですよね・・。感謝ですね・・。
感情的なイエス様って、たしかにちょっと意外ですよね(^^;
感情ってすごく厄介なもので、なるべく人に見せたくないし自分でも見たくない・・・
感情をうまくコントロールしなきゃ!
って思ってきたような気がするけど、なんかそれ、ちょっと違ってたかもしれないな・・・と思いました。
「イエス様には何でも隠さなくていい」ってことは知ってたつもりだったけど
イエス様ご自身が、嘆いたり怒ったりしながら父なる神様に向かっていかれた姿を見て
あぁ、本当にそうなんだなぁって、なんだかホッとしました(^^)
色んな意味で限界のある人間に対しては、
お互いある程度の遠慮は必要だと思います。
でも、何も言わなくても全部お見通しの神様には、
「遠慮する」ことのほうが、かえって失礼なのだと、
最近色々なことで、思わされています。
ヤコブのように、場合によっては一対一で格闘しても良いのだと・・。
感謝ですよね!